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喜連川温泉は、喜連川町長でありました、故塩野昌美氏の発見から始まりました。
以下は、昭和57年4月号「自治とちぎ」掲載 温泉開発奮戦記 塩野昌美
より抜粋させていただきました。

昭和52年、たまたま私が経営している養魚場で、高温の水を必要としたので深井戸を掘ったところ、220メートルで摂氏29度の高温の水が出ました。
私の希望は大きくふくらみ、もっと高温の温泉湧出の可能性に自信を深めてきました。
昭和54年に町長に当選した際の最大の公約は、温泉開発による町の発展策です。
わずか20数億の財政規模の喜連川町では、一銭も余分なお金はありませんでした。
そこで県議会に陳情、請願をし、議会において異例の採択で、調査費を予算化していただき、昭和54年12月から昭和55年2月まで水質検査・温泉地質構造・温泉賦存状況・温泉源の可能性等を調査し、総合解析をするとともに地下増温率についても検討されました。
この結果、温泉法に該当する極めて有望な温泉水帯の賦存が確認されたわけです。
ますます、温泉掘削を断行する決意を深めました。
我が町の台所は、極めて淋しい状況でありながら、町内の商工・各種団体からは、温泉開発を早期実現して、町の振興発展に資してもらいたいと強い要望が出されます。
しかし、町民の貴重な税金で掘削を実施し、もし失敗したらどうするのか、地上からの調査では、いかに専門家が出るといっても100%の確率があるわけではありません。
しかし、町の将来を思い、町費支出を決断いたしました。
昭和56年1月23日、県の掘削許可を得て掘削を開始しました。
同年2月末、深さ130メートルに達しましたがビット(掘削機先端の砕岩機)が回転するどころか押すも引くもまったく不可能になってしまったのです。ここで第一難関にぶつかったのです。
技術的に復旧不可能になり、すぐ脇に掘削しなおしとなり、最初に逆戻りになってしまいました。ここで1ヶ月の貴重な日数が無駄になってしまったのです。
その後は、順調に300メートルまで進み予想以上の泥岩層に突きあたり700メートルまで続きました。当初の計画では、600メートルで摂氏42度、1000リットル程度のお湯が得られるものと予想し、議会議決をしていたため、ここで大きく計画が狂ってしまったのです。これでは、十分な量が得られないので1000メートルまで増掘することになりました。が、反対住民から「お湯も水も出ない税金の無駄遣い」とチラシが出る始末でした。
同年8月9日1000メートルの予定深度に達し、孔底温度75度という予想以上の高温帯に入り湯量も毎分100リットルは、確実だろうという事でした。更に300メートル増掘すれば高温で多量のお湯が湧出するのではないかと考え、議会にて追加予算を提出し可決されました。
同年9月23日から増掘開始、同28日に1190メートルに達し摂氏46度のお湯が出ました。
同年10月8日1234メートルついに硬岩
同年10月15日1342メートルの深層に到達。
またここで一大難関。作業員が休養の為、ビットを途中までしか引き上げずに、作業を中止していた為、いざ作業開始したところ、あの2月末の事故と同じ状態になってしまったのです。
懸命なる努力の結果、掘削機が動き出したのです。
10月21日県薬務課担当職員立会いのもとに孔内検層が実施され、孔底温度72.5度の結果が得られた。
10月22日から最終段階の作業開始。
10月27日夜、最終作業が終わったのです。その現場に居合わせた誰からともなく「万歳」の声が上がりました。
11月8日午後温泉湧出の報告があり温度42.5度、湯量約200リットルが出たのです。

以上